フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』が強烈に指摘する、人間の持つ「アンドロイド性」

人型ロボットの研究が始まって久しい。彼らは人の形をしながら、人よりもはるかに優れたデータベースと怪力を駆使して、これまで人類がせっせとこなしてきた業務の数々に成り代わっている最中だ。今や1種のマスコットとなった人型コミュニケーションロボットに始まり、2017年にはサウジアラビアで史上初の市民権を獲得したロボットが登場するなど、着実に彼らロボットが、我々ホモ・サピエンスと同等以上の存在として地球上に君臨する日は近づいている。

 

そんな、地球上でもっとも合理的な存在であるロボットの活躍を懸念する人々は多い。ロボットは合理的でありすぎるがゆえに、これまで人の世の理で成り立ってきたあらゆる社会制度を破壊しかねないし、人間よりもはるかに優れたロボットが、人の仕事を奪い、平然と往来を闊歩するのを好ましく思わない連中は、彼らに対して差別的な取り扱いをすることだろう。『Detroit: Become Human』はその問題を克明に描き出していた。

 

そんな危うい両者の関係性であるが、両者を決定的に分けている要素というのは何なのだろう。何が備わっていれば人間で、何が足りなければロボットになるのか。答えはたくさんあるだろうが、この小説、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』においてそれは、「他者に共感する能力」と定義されている。

 

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作中で主人公は、それまで賞金稼ぎの対象としか見ていなかったアンドロイドに好意を抱いてしまい、今まで抱いていた「アンドロイド」「人間」という存在の認識を疑い始める。当時の彼はこう思ったことだろう。「俺は金欲しさのために人殺しをしてしまった」と。そして、主人公が様々な人間やアンドロイドと出会う中で、「人間的」「アンドロイド的」な性質が作品によって徐々に浮き彫りにされていく。

 

いわく、一般に他者の感情に寄り添うことのできる存在は、総じて「人間性」を有していると言うことができ、それ以外の者は、「アンドロイド的」な性質を備えているものだと解釈される。精神分裂病だったり、感情を理解できなかったりする人は、「ヒトであって人ではない」のだ。

 

ここで大事なのは、作中において、決して”生身の人間”や”機械のアンドロイド”という「見た目」によって「人間性」「アンドロイド性」が語られているわけではないということである。すなわち、見た目が人間であっても、他人の死になんらの悲しみを抱かないような人は「アンドロイド」なのであり、反対に、機械仕掛けの造形をしていても、他人の痛みに寄り添うことのできるロボットは「人間」なのである。

 

また、1人の人間が、「人間性」と「アンドロイド性」、どちらか一方しか所有を許されないというわけでもない。状況に応じて、これらの二面性を我々は使い分けているのだ。丁度、仮面で顔を変えるように。

 

「Psychopath」と呼ばれる人は、なにも一部の凶悪犯罪者に限られない。多かれ少なかれ、誰しもそうした冷徹な側面を持ち合わせているのであり、ただその程度が低いのと、めったに他人の前に見せないだけだ。

我々人類は、来るべき非人間的支配者が自分たちの領分を奪わないか憂慮するよりも、己の内側で眠っている「Psychopath」が、何かの拍子に飛び起きて、そのまま自分や周りの首を引きちぎらないか常に監視し続けることに躍起になるべきだ。